のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第八十五段

noririn_06102014-06-09

人の心は純真ではないので、嘘、偽善がないとは限りません。しかし、稀に心がまっすぐで純真な人もいないわけではありません。自分は素直ではないのに人の賢をみてうらやむのは世の常であります。最も愚かなのは、稀にみかける賢人に憎しみをいだく者です。「大きな利のために小さなり利に目をつぶって、虚飾をもって名声を築こうとしているだけだ」と罵る者です。己の最も愚かなところと一致しないのを理由にこのようなことをいうのでわかるのですが、この人は、生まれつき最低の愚か者で、他人を偽っても小さな利を断ることができず、間違っても賢人の賢なるところを真似することができないのです
狂人の真似だといって大通りを走れば、これすなわち狂人です。悪人の真似だといって人を殺せば悪人。駿馬を真似るのは駿馬。舜を慕い集まるのは舜の仲間。たとえ偽りだとしても、賢さを真似ようとするならそれは賢さなのです。

※「駿馬を…」=『揚子法言』学行篇からの引用。
 「舜を慕い…」=舜は中国古代の聖帝。『孟子』尽心上からの引用。

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100%オリジナルの創造で賢さや善を表現できる人がいるとしたら、それはお釈迦さまやイエス・キリストのような類の聖人でしょう。
人の真似だからといって卑下することはありません。
多くの人の中にはサルマネを忌み嫌い、あえて他者の教えに背こうとする者がいます。
歴史上の教訓、先人の知恵、上司の指導、親・先生の教え。
オンリーワン、個性重視といった昨今の風潮は果たして正しいといえるのでしょうか?
単にマネてみようと思ってそれが十分に満足いくかたちでマネできない者のいいわけにしか思えません。
100%じゃなくたっていい。
賢さや善をマネしよう、見習おうと思う心が大切だと思います。
それはそれだけで十分賢さの表れであり、完全なる善への第一歩であるはずです。

正しさは言葉を発した人物の素性や経歴にあるのではなく、言葉そのものの中にある。

まだまだ学ぶことばかり多いと思う41歳最後の日でありました。