のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第三十段

人の亡くなった後ほど悲しいものはありません。
四十九日の間、山里の寺に所を移し、不便で狭い所にじっと大勢が集まって追善供養がなされるのは、なんとも落ち着かない気分がしてなりません。この期間ほど日々が早く過ぎ去る気がするのは他にないでしょう。全てを終えた日には、みな薄情なくらいお互いに口数も少なく自分本位に要領よく身の回りの品を片付けて、散り散りに帰って行ってしまいます。そうして家に戻ってくると、更に悲しくなることばかりです。「これこれのことは、ああ恐れ多い、喪中につき憚られるのでやめておきましょうよ」などと人がわざわざ口にするのを聞いて、こんなに悲しいときに何でそんなことを言うのかと、人の心はやはり情けないものだと思わずにはいられません。
年月を経たとしても、故人の姿をすっかり忘れてしまうような事はありませんが、「去った者は日に日に遠くなって行き、生きている者は日に日に親しくなって行く」という言葉の通り、葬儀の時ほど悲しさを感じる事もなくなって、どうでもいいような事を言って仲間内で笑いあったりするようになるものです。亡骸は人気の少ない山中の墓地に埋葬され、予定されている法事の時だけ墓参りしていると、いつしか墓石は苔むし、落ち葉に埋もれ、そのうちにそこを訪れ語りかけるのは夕べの嵐や夜半の月だけになってしまいます。
時折故人の事を思い出し懐かしむ者があるうちは墓が埋もれるその様子を哀れと思うでしょうが、そのような人も次第にこの世から去りゆき、故人のことをただ聞き知っただけの子や孫が、同じようにしみじみと故人を偲ぶようなことが果たしてあるでしょうか。そうして死後を弔う法要も途絶えてしまうと墓の主が誰とも名を知る事もなく、年々の春の草をみて、情理がわかる人だけが何かを思い描くだけとなります。そのありさまは、古い言葉にある、「嵐にむせび泣くような音を立てていた松も千年を待たずに薪としてくだかれ、古い墓は耕されて田となりゆく」そのままです。亡き人がこの世に残した跡さえなくなってしまうのは、本当に悲しいことです。

※「去った人は…」「嵐にむせび泣く…」=ともに『文選』第十五「古詩十九首」の一節。

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前回に引き続き、死別に関するお話です。
あと何段か、しばらく続きますがご了承を(^^;)