のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第二十五段

noririn_06102011-05-22

飛鳥川の流れのように常ならぬ世ですから、時はうつろい出来事は去り、楽しみと悲しみは行ったり来たりで、栄華を極めた貴人の邸宅のあたりもいつしか人の住まない野原になれば、昔からの家屋が残っていてもそこに住む人はもはや別の人です。桃やすももは物を言うことはできないし、いったい誰と過去を語らえばよいのでしょう。ましてや、みたこともない過去の高貴な人の住まいの跡だけが残っているなんて、ただむなしいばかりです。
京極殿、法成寺を見ていると、志は失わないまま姿形を変えてしまったように思われてしみじみと感じ入ります。御堂さまがお造りになり、所有地をたくさん寄付なされて、ご自身の一族のみがみかどの後見人となり、世の守護者となり、このまま未来永劫続けばいいとお思いの時、どんな世になったとしてもこれほどまでに廃れてしまうとはご想像すらされなかったことでしょう。総門、金堂は少し前まではあったけれど、正和のころに南大門は焼けてしまいました。金堂は、倒壊したまま再建されるめどすらたっていません。無料寿院のみが原形を留めており、堂内には九体の一寸六尺の仏像が尊くも並んでおられます。荒廃した境内の中で、行成大納言さまのかかれた額、兼行殿がかかれた扉だけが鮮やかさをみせているのがはかなげで物悲しく感じます。法華堂もまだ無事に保たれています。しかし、それもいつまでのことでしょう。法成寺のような名残すら消えた場所では、普通ではみられない礎石を残してはいるけど、なんの跡だか知る人もおりません。
だからこそ、何事も、予想できない未来のことを前もって考えてあれこれ対処しておくのは、無意味なことなのですよ。

※「飛鳥川」=奈良西部を流れる川。川の状況・流域が変わりやすかったため、世間無常のたとえとされた。
 「京極殿」=藤原道長の邸宅・土御門第。1070年に焼失。
 「法成寺(ほうじょうじ)」=藤原道長が土御門第の東、鴨川の近くに建立した寺。現在では、法成寺跡を示す石標が荒神口通寺町東入の路傍、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に残るのみである。
 「御堂さま」=藤原道長。法成寺の阿弥陀堂無量寿院)が京極御堂と称されたため。
 「正和のころ」=花園天皇の時代、1312〜17年の元号
 「行成大納言」=藤原行成道長の時代の多芸多才の公卿で書にも秀でていた。
 「兼行殿」=源兼行。道長の子・頼通の時代の能書家。

写真は藤原道長の子・頼通の建立した平等院鳳凰堂です。
法成寺は廃れた一方で平等院が今もなお残っているというのも不思議なものですね。