のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

余韻

例年祇園祭が終わると「終わった~」と余韻を引きずってますが、ことしは特に祭ロストが激しいです(^^;)
祭がおわって社会復帰して、2日ほど仕事しましたがほとんど抜け殻状態w。
フルスペックで楽しみまくった満足感と、バカみたいにいっぱい撮った写真整理と、失敗と反省。
そして、もうかれこれ20年も毎回のようにみてる祇園祭ですが、行けば行くほど、知れば知るほど新たな興味や疑問があふれてきます。
備忘録としてそれらを記しておこうと思います。

まず失敗だったのは撮影した写真の整理。
後祭の宵山から巡行までのインターバルが短かったせいもあって、ちゃんと撮影した写真をPCに写す作業ができておらず、最終局面でメモリが足りなくなるというミスをおかしました。
どうも宵山の撮影中に撮影枚数カウンタが「9999」をこえて「0001」になっちゃってたみたい。
すると別フォルダになって記録されるので、フォルダだらけになっちゃって。
急遽7D mark2のSDカードをR7にぶち込んで撮影したら、そこでまたフォルダが増えちゃいます。
そんなわけで、もうどこにどの写真があるのかわけわかんなくなっちゃうという(--;)
対処法として、さらに容量の大きいメモリを購入して使う方向で検討しています。
R7を使い始めて8カ月ほど、7Dで使ってた16GBをそのまま使ってましたが、やはり写真1枚1枚のメモリサイズが大きいので想定以上に早くメモリ切れになっちゃう。
32GBか64GBをダブルスロットで2枚入れとけば、まあよっぽどでなければメモリ切れに見舞われることはないでしょう(^^;)
64GBでも1枚1500円くらいで買えるしねw。

花傘巡行のルート変更にも戸惑いました。
たった1度目の前を通り過ぎる列をしっかり撮るのは至難の業。
来年以降も今回と同じルートでやるとしたら、もう花傘巡行と山鉾巡行の両方を追っかけるのは難しそうです。
でないとボクが一番楽しみにしてる八坂神社での奉納舞を全部みられなくなっちゃいます。
そうはいっても山鉾巡行では友人がボランティアで参加してるのでおろそかにできないし…
にしても、山鉾巡行と花傘巡行(特に奉納舞)を同時進行でやるって、ちょっとそれどうなのよ?
来年以降は奉納舞を13時以降にするとか、時間が被らないようにしてもらいたいものです(^^;)

で、今回の祇園祭では特に舁き山のご神体に注目して山鉾散策をしていました。
雨が降ったら巡行の際ビニールで覆われてしまうので、晴天に恵まれたことしはこれらをしっかり撮影できたというのも大きいです。
そろそろ前祭の23基と後祭の11基、全部覚えられてると思うんですが、いつも思うのは「なぜこの題材?」という疑問です。
わかりやすいのは霰天神山油天神山、それと八幡山です。
各町に小さなお社があるので当然そうなるのかな、と。
特に天神さまはこの梅雨から梅雨明けの時期に多い雷除けという意味でもわかりやすい気がします。

油天神山のお社
八幡山のお社

ボクが一番気になるのは祭における神功皇后
神功皇后三韓征伐の出征を象るのが前祭の船鉾で、その凱旋が後祭の大船鉾
これだけでも特別扱いな感じがしますが、さらにもうひとつ占出山があって、神功皇后をご神体とする山鉾は3つもあります。
仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母ですが、謎の多い人物です。
仲哀天皇崩御応神天皇の即位まで、70年もの間摂政として君臨し、明治までは「女性天皇」と記されていたといいます。
一説に、ここで万世一系がタテマエの皇統は途絶えて、別の王朝になっているともいわれます。
応神天皇仲哀天皇の子ではない、ということ。
そりゃ腰に石を抱えたくらいでおなかの中の子どもが生まれ出るのが遅くなったりしないでしょう。
そして皇后が新羅の王子(天日槍命)の末裔であるということを出石神社に参拝した時に知りました。
とても興味深い人物です。
なお、占出山は神功皇后肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆とした逸話を象ったものです。
船鉾・大船鉾と占出山がいつごろからいまの形で祭に登場するようになったのか知りませんが、京都の町衆の間で篤く信仰されていたことは間違いないでしょう。
山鉾がいまの形になったのがいつごろなのか、その点を重点的に調べると当時の人々の信仰、習俗といったものが垣間見えるかもしれません。

占出山

ほかにも気になるのは、全体的に中国の故事を題材にした山鉾が多い点です。
函谷鉾=戦国時代、孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事(「鶏鳴狗盗」)
鶏鉾=中国の三皇五帝・尭の時代、平和だったので争いごとを告げる鉦に苔が生え鶏が卵を産んだという話から
孟宗山三国時代、呉の人で、病身の母を養う孟宗が、雪の中で筍を掘りあてたという話から
郭巨山後漢の人、貧困で老母を生かすために子を殺めようとするほどの親孝行の郭巨が金の釜を掘り当てたという話から
伯牙山=中国の周時代、琴の名人伯牙が親友の鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断ったという話から
楽天=唐代の漢詩

孟宗山
郭巨山
伯牙山

ここからうかがい知れるのは、これらの山鉾が造られたころの京都人の間では「司馬遷の『史記』」や「二十四孝」「漢詩」などが一般的な知識として知られていたということです。
ちなみに「二十四孝」は元の時代に郭居敬という文人が編纂した孝行話を集めた書物なので、日本に入ってきたのは少なくとも鎌倉時代以降になりますね。
楽天白居易)の漢詩は『枕草子』で「香炉峰の雪」というくだりがあることから平安時代の宮中ではすでに知らないと嘲笑される教養だったことがうかがえます。

ボク個人的に、祇園祭の山鉾は各山鉾町の住人たちの京都人らしい「見栄」のカタマリだと思っています。
「あっちがあれでくるならこっちはこれで」みたいなw。
家々の伝来の家宝、渡来のじゅうたんなどを持ち寄って山鉾を覆い、神社仏閣のゆかりの薄い町では文化的知識を集めてご神体を決めていったのかなぁ、と思います。
祇園祭を知れば知るほど「今も昔も京都人は…w」とクスっと笑える風景が思い浮かびます。

そんな感じで間もなく終焉を迎える祇園祭を振り返ります。
ただ、あんまり余韻にばかり浸ってるヒマはありません。
きょうも実は来月8日に開催されるびわ湖大花火大会を撮影するにあたって琵琶湖周辺に下見に行こうと考えてたんですが、午後から雷の予報が出てたので断念しました(^^;)
こりゃぶっつけでいくしかないな~。
今後も続々と祭事・イベントがコロナ前のように復活していくと思われるので、可能な限り追っかけていきたいと思うのでした☆