のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第七十二段、七十三段

noririn_06102012-12-27

第七十二段
下品で見るにたえないものといえば、座るところの周囲が小物で一杯の部屋。置いてある筆がやたら多い硯。仏像が多すぎる仏堂。石や草があふれかえった庭。子や孫がひしめく家。口数の多すぎる者。自分の善事を書き連ねた祈願文。
多くても見苦しくはないものは、文車に並べられた書物。ごみ捨て場のちり。

第七十三段
世に語り伝えられる話は、真実のままではおもしろくもないのでしょうか、大半はみな作り話です。
実際の出来事より人は物事を大げさにこしらえて言う上に、ましてや歳月を重ね、また現地からも遠く離れ、言いたいように人に語り伝えて書物にも書き残されると、それが事実として定着してしまいます。その道の名人の素晴らしい技について、物の道理もわきまえずその道に詳しくない者はそろって神のように賞賛しますが、真実を知る者はそのような戯言には決して振り回されません。噂に聞くのと実際に目にするのとでは、何事であっても大きく異なってくるものなのです。
一方、語っているそばから嘘がばれてゆくのを気にもかけず、口からでまかせで言い散らせば、当然すぐに当てにならない話だと知られてしまいます。また話し手自身も「本当の話ではないだろう」と思いつつ、それが人から聞いた話そっくりそのままであるなら、たとえ得意げに鼻をぴくぴくと動かしながら吹聴して回ったとしてもその人の嘘とは言えないかもしれません。しかし、いかにももっともらしく思わせるように話の所々を不審がって、よく知らないような口ぶりで、そのくせ話の端々つじつまを合わせるように嘘をいうと、人を容易にだますことができるので、とても恐ろしいことです。自分にとって名誉になるように他人から言われた嘘なら、人はそれほど言い争って否定したりしません。皆が面白がっている作り話に、自分一人が「そうでもなかったものなのになぁ」と口をはさんでも仕方ないので黙って聞いているうちに、自分が話の証人にされてしまって、そうして作り事はますます事実になっていきます。
とにかく今は嘘偽りの多い世情です。嘘を別に珍しくも何ともないこととして受け入れているのが万事に間違いないことでしょう。下品な人間の話は聞いてびっくりするようなものばかり。物事をよく知る君子ならば、確かではない話をむやみに口にすることはありません。
そうはいっても、神仏の霊験や高僧の伝記まで信じるな、ということではありません。こうした方面の作り話をむやみに信じるのは馬鹿らしいことですが、「まさか、そんなことはありえない」とむきになっても、それを信じている人には何の効果もなく仕方がないので、たいがいは、事実として応対して、しかし妄信せず、また疑って嘲り笑うようなこともやめたほうがいいものなのです。

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10月以来、久しぶりの、そして多分ことし最後の徒然草です。

ヒマをみつけて徐々に大掃除を敢行、ようやくボクの座る場所の周辺の片づけが終わりましたw。
そんなところでこの内容。

それにしても、下品で見るに耐えないもの、色々ありますね〜。
「自分の善事をいい連ねた」選挙期間の候補者、政党とか。
テロップとお笑い芸人とオカマに占拠されてるテレビ番組とか。
ホントテレビは下品な画面ばっかりでみなくなりました。
後段の話なんかテレビ番組制作者に読ませてやりたい。

テレビやCMをみてると、「買え、買え」「食え、食え」→「カネがなくなったら消費者金融でカネ借りて買え、買え」「太ったら運動器具やダイエット食品を買え、買え」…といわれてる気がして気持ち悪くなります。
まんま映画『ゼイリブ』の世界w(知らない方にはオススメ、おもしろいSF映画です)。

資本主義社会というのはエスカレートするとこうなるのかな〜なんて思うこの年の瀬。
資本主義も、民主主義も、兼好法師の美意識からすれば間違いなく「下品で見るに耐えない」世界のような気がします。

※写真は壷坂寺にある「沢一とお里」の石像。
壷坂観音の霊験で眼の病が治ったという逸話があります。信じますか?