のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第八十段

noririn_06102013-09-13

人というのは自分とは関係のないことばかり求めようとするものです。法師は武芸を極めようと心を注ぎ、武士は弓を引く術も知らないくせに仏法を心得ているような気になり、連歌を楽しみ管絃をたしなみあっています。しかしそれでは、おろそかにしている自分の本職よりもいっそう、人から軽んじ侮られるというものです。
法師だけではありません。上達部、殿上人などの位にある公家の中にも武芸を好む者が多くなっています。武士の世界は百戦百勝したとしても、勇名を轟かせるのは難しいものです。幸運に乗じて敵を粉砕しようという時に、自分は勇者じゃないなんていう者はいません。武器尽きて矢撃ち枯らしてもなお敵に下ることなく死に赴いたあとで初めて武士としての名を残すものなのです。生きている時に武芸に誇りを持っていてはいけません。武士とは人として背き、猛禽として生きる道であり、武家に生まれたものではない限り、武を好んだとしても益になるものなどないのです。

※「百戦百勝」=『孫子』の一節(「百戦百勝するは善の善なるものにあらざるなり」)。
 「武器尽きて…」=『文選』巻二十一、李陵「蘇武に答ふる書」の引用。李陵は前漢武帝時代、匈奴に投降した軍人で、司馬遷がこれを弁護して宮刑になったことでも有名。蘇武は李陵のかつての同僚で、同じく匈奴に捕らえられるも漢に対する忠節を貫いた。

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かなり久しぶりの徒然草です。
どこまで進めてたか自分で忘れるくらいw。

兼好法師の時代の公家が武家に対してどう考えていたのかがよくわかる段ですね。