のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第十四段

noririn_06102011-04-28

歌はとてもおもしろいものです。身分の低い下賎な者や、山中に住む木こり、狩人のことも歌の題材にしたら趣深く、あんなに恐ろしいイノシシのことでも「うり坊のおやすみベッド」なんていってみればかわいいものでしょう。
最近の歌といえば、部分的にはうまくできているものがあるけれど、古き良き時代のものと比べたら、どうでしょうね、言葉をこえた余情に満たされるような歌はまずありませんね。紀貫之が「糸によるものならなくに」と歌った歌は、古今和歌集の中では駄作だ、なんて言われていますけれども、今の人が作れるレベルの歌とは思えません。この時代の歌にはこういう格調やいいまわしのものがたくさんあります。どうして貫之の歌だけが駄作扱いされているのかわかりません。ちなみにこの歌は『源氏物語』に引用されて「物とはなしに」と書かれていますがそれは誤りです。新古今和歌集の「残る松さへ峯にさびしき」と言う歌も駄作といわれていますが、確かに少し音がくだけているようにみえるでしょうか。しかしこの歌も、歌の優劣を判定する際に「なかなかのものであると言うことになり、後にも、後鳥羽院が特別にお褒めになって、勲章をもらった」と源家長の日記に書いてありました。
「歌は昔から何も変わっていない」という説もあるけれど、それは違います。今でも短歌によく使われている言葉や名所などは、昔の人が歌った時のものと全く違います。昔の短歌は優しさがあり、流れるようにテンポが良く、スタイルが整っていて美しく感じます。
梁塵秘抄』に載っている流行の謡物の句には、みごとなものがたくさんあります。昔の人々がたとえ言い捨てるように使った日常の言葉であっても、みな、とても趣あるように聞こえるのですよね。

※「糸による ものならなくに 別れ路の 心ぼそくも 思ほゆるかな」(『古今和歌集』巻九)
「冬の来て 山もあらはに 木の葉降り 残る松さへ 峯にさびしき」(『新古今和歌集』巻六、祝部成茂)

※写真は和歌つながりのイメージ、去年の嵐山花灯路時雨殿前の生花プロムナードです。