のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第五十八段

noririn_06102012-05-01

「仏の教えを求めようとする心さえあれば、住む場所などは関係ない。自らの家にあって、人との付き合いがあろうとも、来世の安寧を願うことに何の問題があろうか」というのは、来世とは何であるかをわかっていない者の言葉であります。本当にこの世を嘆き、輪廻転生の迷いから脱しようというのに、何が楽しくて、日夜主君に仕え、家庭の雑事を心にかけるような仕事に打ち込んでいられるのでしょうか。心は外界との縁によって引きずられて移ろうものですから、周囲が閑かでなければ仏道を求めることはできないのです。
現代人の才能は古人に遠く及ばず、山林に篭ったとしても、飢えをしのぎ、風雨をさえぎる手立ても見つけられなければ生きていくことすらできないので、世の名誉や利益を求めるようになるのも場合によっては仕方ないことでしょう。しかし、だからといって「ならば世を捨てた意味もなかろう。その程度の覚悟なら、なぜはじめから捨てようなどと考えた」というのは、無茶というものです。ひとたび出家して仏道に入り、世を捨て山に篭った人にも何かしらの欲望があるでしょうが、その欲は権力者の貪欲とは似ても似つきません。紙の夜具、麻の衣、鉢一杯だけの膳に雑草のお吸い物。これらがどれほどの他人の物を費やすことになるでしょうか。たやすく手に入るものですから、欲もすぐに満たされます。自らの僧侶姿に気がひけるところもあるので、世間の人同様の欲を起こすことがあるといっても、修行の上での悪からは離れ、善に近づくことだけが多いのです
人として生まれたからには、どうにかしてでも俗世の欲から離れることこそ大切です。ただ世間の名誉や利益を得ることにばかり精を出して、悟りの道に入ろうとしないならば、人間以外のけだものといったい何が違うというのでしょうか。

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やりたいことが多すぎて、俗世に未練が多すぎるボクには出家なんて夢のまた夢w。
成仏なんて、さらに夢のまた夢ww。