のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

よいこの徒然草・第十九段

noririn_06102011-05-11

 うつろいゆく季節ほど趣深いものはありません。
「秋ほど素敵な季節はない」という人は多く、確かにそうかもしれませんが、それにまさるのが春の景色だとわたしは思います。鳥のさえずりも春めいて、おだやかな光が差し込み、垣根の下に草が生い茂りだす、そんな時期からさらに春が深まって、あたりに霞がたなびくようになると桜が咲き始めるのですが、ちょうどその頃に雨が降りつづき春風が強まって、桜は気ぜわしく散ってしまい、新緑の季節になるまで何事も心が落ち着かないことばかりです。夏のころの橘は昔のことを思い出させるといわれますが、薫り高い梅の花こそそういうものだと思いますし、清らかな山吹の花も、藤の花のしなやかな姿も、どれもこれも捨てがたいところです。
 「灌仏会のころ、あるいは葵祭のころの新緑に逆に物悲しさを痛感する」という人がいますが、本当にその通りだと思います。菖蒲を軒にさす端午の節句や、田植えが始まるころに、くいなの鳴き声がしきりに聞こえてくると切なさが募ります。真夏の日の夕方、貧しい家に夕顔が白く咲いて、蚊取り線香が煙っている景色もまた趣があります。夏越しの祓いも趣深いものです。
 秋の七夕祭りには清らかな魅力があります。日ごとに夜の肌寒さがまし、雁が鳴きながら空を渡ってきて、萩の下葉が色づくころ、早稲を刈って干す光景もみられるようになります。秋は素敵なものを数えればきりがありません。台風一過の朝の青空もまた素敵です。こんなふうに数え上げるのは、まったく『源氏物語』や『枕草子』のまねごとみたいですけど、同じことをしていけないというわけではありませんよね。それに、言いたいことを言わないでいると腹に悪いというので、筆にまかせて書いているのです。どうせ暇つぶしに書いてすぐに破り捨てるつもりで、人に読んでもらうつもりはありませんから。
 冬枯れの季節の景色も秋に負けているものでしょうか。水辺の緑の上に紅葉が散り落ちて、霜で真っ白になった朝の景色、庭の小川から湯気が立ち上っているところなどは、とりわけ趣があります。年の瀬に人々がせかせかしているのをみるのは、これまたおもしろいものです。誰も見向きもしないような荒涼とした月が寒々として澄み切った空にうかんでいる20日すぎの夜空の切なさといったらありません。
 仏名会が行われたり、荷前の勅使が出発したりするのも、また格別な風情です。そのような宮中の行事が、新年の準備で忙しいさなかに立て続けに執り行われるのがおもしろいのですよね。大晦日の夜に追儺の鬼やらいがあったかと思うと元日の朝にはもう四方拝の儀式が行われる、このあわただしさがいいのです。街では、大晦日の夜の暗闇の中を、松明を持って、夜更けまで誰かが門をたたいては忙しそうに走り回って、何事かあったのかただならぬほどの大声で地に足が着かないほどだったのが、夜明けにはそんな物音も聞こえなくなってあたりを静けさが覆います。年越しの切なさを痛感するひとときです。祖先の霊を迎える魂祭を大晦日にする風習は都ではもうすたれてしまいましたが、それが東国に残っていたのは感慨深いものでした。
 こうして夜が明けていく元旦の空の景色は、きのうとたいして変わらないはずなのに、何かすっかり新しくなったような心地がします。大通りは軒ごとに立てられた門松でにぎわい、新年を祝っている様子もまたいいものですね。

※「灌仏(会)」=旧暦4月8日、釈迦生誕の日の仏事。
 「夏越しの祓い」=6月末日、一年の半分を終え残り半年の無病息災を願う大祓い神事。
 「仏名会」=12月19日から3日間、宮中清涼殿で三世諸仏の名号を唱える仏事。
 「荷前(にさき)の使い」=12月中旬、諸国からの貢物を陵墓に供える勅使が出発する儀式。
 「追儺の鬼やらい」=大晦日には鬼がやってきて悪疫をもたらすのでこれを祓う儀式が執り行われた。
 「四方拝」=元旦の早朝に宮中清涼殿で天皇が五穀豊穣・宝祚の長久を祈る儀式。
 「大晦日の夜の暗闇」=陰暦の月末月始は新月で明かりがないととても暗い。

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京都の今もなお残る四季、もうみられなくなった四季が垣間見られる段ですね。
節分は今は2月3日ですが、陰暦では大晦日立春がお正月ということになります。
京都(以外でもそうかもしれませんが)の神社仏閣で節分の行事がとりわけ多いのもそこに理由があります。

ボク個人的には、春夏秋冬のうちのどれが一番好きということもなく、それぞれの季節がそれぞれの季節らしいのが一番だと思ってるので、兼好法師に近い好みかもしれません(^^)