のりりんの京都日和

京都府在住ののりりんの徒然ブログ

宗教的日本人

統一協会との関連について、自民党が自己点検の結果を発表したという。
予想通りというか何というか、長年統一協会を追っていたジャーナリストの鈴木エイト氏いわく「(100点満点で)10点」。
高校・大学なら赤点追試、もしくは落第。
最初から本気で手を切ろうとか規制しようとかなんて微塵も思ってないと思っていました。
統一協会自民党はこれまでもこれからも一心同体。
どうにかしようと思うなら、まずは選挙によって自民党という政党を政治の場から追い出すことです。
追い出した上で法改正をして、指定暴力団の制度と同様の「指定カルト教団」を設定して徹底的に社会との接点を持たせないようにすること。
統一協会の宗教法人格を取り上げて営利団体として普通の税金を払わせること。
日本がカネづるじゃなくなれば自然彼らも祖国に戻っていくか他の国に逃げ出すことでしょう。
もっとも、世界で日本ほどカルト宗教にハメられるバカな国はほかにないでしょうけど。

なぜ日本人はカルト宗教にハメられやすいのでしょう?
ボク個人的には「日本人が無宗教だから」ではなく「日本人が自己の宗教(信仰心)に無頓着だから」だと考えています。
無宗教なのではなく、自分の、日本という国の宗教的側面を知らない、自覚がないのです。
それは多分に日常生活やいわゆる常識と呼ばれるような倫理的価値観で、風習、文化とも呼ばれるものです。

みなさんは「雨男」「雨女」あるいは「晴れ男」「晴れ女」という言葉を使ったことがありますか?
何言ってんだ、オマエしょっちゅうこのブログで「のりりん晴れオトコ!」とか言ってんじゃねえかと言われてしまいそうです。
が、ボクはあえて「そんなものは全くの迷信で、単なる偶然にすぎない」ことを自覚しつつ用いています。
実際は偶然を装いながら、日ごろから綿密に天気予報をチェックして、天気が悪そうなときは出かけないようにしているだけのことです。
そう、日本人には「晴れ男」「雨男」のような全くの迷信を普通に当たり前のように受け入れる側面があるのです。
全く非科学的です。
非科学的なのに信じてしまっていることを「迷信」といいます。

もうひとつ例を出してみましょう。
みなさんは闇夜に不思議な物音を聞いたらそれは何だと思いますか?
よくいわれるのが「ラップ現象」と呼ばれる心霊現象。
闇夜が薄気味悪く感じたことがありませんか?
オバケが出るかも…何か人ならぬモノがいるのかも…みたいなw。
何かわからないのに真っ先にそうした薄気味悪さを感じる人は多分に迷信的発想の持ち主です。
わからないなら確認すればいい。それが科学的な立場です。
わからないは恐怖につながります。
それを打ち払うには「知る」ことだとボクは確信しています。
一昨年前から数回の旅行の折に「神さまに呼ばれてる気がする」という内容のブログもかきました。
ブログではかいていても、内心では単なる偶然で、自分が無知だっただけのことと自分では自覚しています。

日本人のそうした迷信に惑わされる感性は時として興味深いものを生み出します。
「妖怪」をはじめとしたイマジネーション豊かな物語。
「怨霊」「呪詛調伏」「陰陽師」…
そうしたものをすべて迷信、まやかし、取るに足らない戯言…といいたいわけではありません。
ボクは歴史を学ぶことに至上の価値を見出す者です。
迷信が迷信だとしても、過去から現在に至る歴史の中でそれを信じる人がいる。
それは紛れもない事実です。
日本人の迷信好き、因縁好き、偶然を偶然と思えない心が菅原道真が天神になったという信仰を生みました。
タタリを恐れて人の恨みを買う言動を慎む道徳(?)が生まれました(もっとも最近ではこうした考え方は廃れつつありますが)。
そうした迷信を信じることを非難したり否定したりしてもそれは意味のないことです。
単なる偶然の事故に意味を見出し、教訓として残すことは無価値どころかむしろたいへん有意義なことだと思います。
むかしからの子どものしつけの言葉などのような教訓になる迷信もたくさんあります。
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
「嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる」などなど。
日本人が迷信を受け入れやすいのは子どものころからそうした話に身近に接しているからでしょうか。
日本人の迷信好きには良い面もある。悪い面もある。
それを自覚することが大切です。

いくらがんばっても成就しない。うまくいかない。
自分や身内に次々と不幸なことが起こる。
一人ぼっちでさみしい。
何か原因があるのではないか?
そう考える人は日本に限らず世の中にたくさんいます。
「がんばり方が足りない、間違ってる(がんばらなくっていい)」「単なる偶然」と片付けられない人がいます。
わからないなら確認すればいいといいましたが、この世の中に事実を確認できないことなど山ほどあります。
わからないことをわからないまま放置できない人がいます。
そんな中で「霊の仕業」「前世の罪業のせい」「先祖供養の不備」などと言われて納得してしまう人がいます。
そこに付け入ってくるのがカルト宗教です。
苦しんでいる人の藁にもすがりたい気持ちに付け込んでカネを巻き上げる。
本人のみならず家族まで巻き添えにする。
科学的根拠のない原因を賢らに説いて人を騙す。
悪辣な犯罪者たちです。
カルトかそうでないかを分ける最大のポイントは「カネを巻き上げる」という点です。
幸福も真理もカネで買えるものではありません。
金額の多寡で変わるものでもありません。
しかし、日ごろから社寺でお賽銭を投げてる日本人にはどこかに「金額の多寡で願いが叶う可能性が変わる」と思っている人が少なからずいるように思われます。そんなものは嘘っぱちです。
ならばお賽銭を要求する社寺はカルトか?と言われると、それは明らかに否です。
お賽銭の金額は指定されません。払わなくったって文句を言われません。出す人の自由です。

日本人の信仰心の根っこにあるのは仏教でも神道でも儒教でもありません。
先に述べた「タタリへの畏怖」です。
タタリをもう少しわかりやすい言葉に変えれば「原因不明の自身の不幸」と言っていいと思います。
仏教も神道もその他日本のあらゆる宗教も、全部タタリから逃れる手段にすぎません。
古来から日本人の信仰心に深く突き刺さっているのが「タタリへの畏怖」です。
その恐怖心が迷信を生み、広げ、日本という国の歴史、文化を紡いできました。
それは同時に敗者を思いやる美しい心を育みますが、タタリのもととなる対立・争いを嫌い、時として長いものに巻かれるごとく意見をぶつけ合うのを避けて迎合してしまう。
良い悪いは別にして、日本人はそうした民族なのだと自覚すべきです。
その自覚がある人が日本にどれだけいるでしょうか?
自覚がないからタタリ=原因不明の自身の不幸から逃れるために藁どころかカルト宗教にまですがってしまう。

ボクはいわば「歴史教」の信徒です。
歴史をつぶさに学び知ればあらゆる教訓を身につけることができる。
信仰、宗教もその中の一部にすぎないと考えます。
改めて「恐怖は知ることで取り払うことができる」。
そんなわけで、ボクは今後も自分の未知を探求して走り回るのです(^^;)